「こころ」を読んで

014 (2)
夏休みと言えば、学校から出される課題です。
中高よりも小学校の宿題が印象に残ってます。
漢字練習や計算問題、一行日記、自由研究。
忘れてはならない読書感想文。
感想文に至っては大学入ってもありました。
そんな懐かしい気持ちに浸りたいと思い、本を読んでみました。
課題図書は夏目漱石の「こころ」。
第一章「先生と私」までしか読んでないので、あしからず。

海岸の雑踏の間から先生を見つけた「私」に、こいつはホモの気があると信じて疑わなかった。
一目惚れの上に、先生の現れる時間帯を狙って「私」も追走するようなストーカー気質である。確かに、気になる人物の姿を追いかける気持ちはわかる。私も制服姿のJKのスカートをさわやかに追いかけたし、「耳を澄ませば」の天沢聖司のストーキングスキルに恐怖と尊敬の念を抱いたものだ。この読書で「私」から憧れで終わらせない行動力を学んだ。
「私」がホモっぽいからノンケは帰ってどうぞ、みたいなステレオタイプのうっすい話かと思っていたが、一章では一緒の布団に入って熱い夜を過ごしたという描写は一抹も見当たらなかった。しかし、雑司ケ谷の霊園に月一で墓参りをし、恋は罪悪だの、金の整理はしとけとのたまう先生のミステリアスな雰囲気はノンケもやられそうだと感心した。「私」が先生の妻に、先生のついての話題をした際にも、
「それだから困るのよ。あなたからそういわれるとじつにつらいんですが、わた足にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何べんあの人に、どうぞ打ち明けてくださいって頼んでみたかわかりゃしません」
明治末期、男色であることを打ち明けることは容易ではない。おそらく、先生夫婦の間に子供をもうけなかったのも、先生がホモである可能性が微レ存?
そんなミステリアスホモの雰囲気を残しつつ、「私」は徐々にミステリアスな部分に焦点を当てていく。何故毎月墓参りをするのか?誰の墓なのか?働いてないけどニートというより無職なのか?恋は罪悪とは?
先生に問えば謎が謎を呼ぶ問答の連続。正解は第三章で!という展開の持って行き方に、文豪ならではの読書欲をかきたてる秘訣を熟知しているのだろう。余談ではあるが、第三章は現代文の教科書でちょっと読んだ。
先生の魅力はとどまらない。「私」の故郷で病床にある父親の容体をしきりに心配する描写がある。どのような病気かと聞けば、「私」が次に訪れると同期の医者から聞いたであろう知識をひけらかす。これは見たこともない相手への恋ではないだろうか。先生は生来丈夫な体であり、病気とは無縁だ。いわゆる病弱、病人に対するある種の憧れをこじらせた、どうしようもない恋ではないだろうか。
私も、全く風邪をひかない時期があり、冬場の体育が面倒くさくて腹を出して寝た結果、高校入試の合格通知を高熱状態で受け取った経験がある。また、病弱のふりをし、手厚くもてなしてもらおうと仕掛けたこともある。あの後の罪悪感と言ったら半端ない。
きっと先生もそんな憧れと、怪死した書生時代の友人を重ね合わせているのだろう。しかし、友人の姿を重ね合わせるという見方は非常に低いと考える。ホモに友人などいない。
また、「私」が故郷の父親の見舞いから東京に帰ってきた際のお土産は、「しいたけ」だった。明らかに男根の直喩である。無数のしいたけを先生へのお土産として渡すあたり、「私」がホモであることはほぼ証明されたようなものだ。母親の計らいは見事成功している。おそらくこの物語の黒幕は「私」の母親だ。さらに言えば、この母親は作者・夏目漱石意志が最も反映された人物である。つまり、漱石はホモ。
先生のホモを証明するにあたり、第一章の最後にはもっとも有力な情報が記されていた。「私」の大学卒業の晩さん会を開いた後である。先生はかねてより秘めていた「死」について吐露する。先生と先生の妻、どちらが先に死ぬか。先生は妻より先に死ぬことを匂わしている。妻は丈夫な先生のことを知っているので、
「私のほうが先よ」
と答える。この会話はただ先生の自殺を予言するものではなく、ホモにおける恋愛に関する見方が色濃くみられる状況である。ホモ、同性愛とは何も生み出さないものである。むしろ差別や病というハイリスクノーリターンである。いずれは退廃的展開しかない同性愛。まして明治という西洋思想が跋扈し始めた世間では、同性愛は江戸の時代より厳しいものになっていたのではないだろうか。
怪死した友人に対する良心の呵責、ホモである苦悩に耐えきれず、そして同性愛の行きつく果てを結論付けた先生が打ち出した発言だった、
ここまで述べれば、いかに先生や「私」がホモであるかがお分かりいただけただろう。
「こころ」とはホモのことだけではなく、人間が抱える欲の深さ、いやしい部分に染まった自分に耐えきれない先生の潔癖な部分が現れている。海水浴の場面などは、自分の負った穢れを払う表現ともとれる。また、書斎の整然とした場面、晩さん会の純白のテーブルクロスの場面では潔癖の証明が生活にも表れていると推察できる。
つまり、いつでもだれに対しても純白でいたかった乙女の心が引き起こした不幸な結末である。同性愛の退廃的な思想を踏襲する漱石の「こころ」に乾杯。

人間だれしも汚い部分は持ってて、いかに反省しながら生きていくことが問われると思いました。とりあえず、反省放棄した先生は人間の屑。残された人間のこと考えろよ。Kと天国でホモってるとか卑怯すぎる。

この感想文は、時間のない学生の皆さんのためにコピペフリーにしてあげます。
コピペによる不利益については、当ブログは一切の責任は負いません。

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